振り返り?反省?内省?リフレクション?

  • リフレクション
  • 内省
  • 反省

これらの言葉を割とごっちゃに使っていた気がします。

https://jinjibu.jp/keyword/detl/462/

こちらのサイトでは、内省=リフレクションであり、反省とは別だと書かれていました。
反省は過去の非を振り返ること、という説明です。

国語辞典でも反省の意味を調べてみました。
国語辞典的には、反省はマイナス面を振り返るという意味ではなく、単に自分の過去の行動を振り返るということのようです。

アカデミック分野など、専門的な文脈で使われるときに別の特殊な意味を持つ単語は存在するので、もしかしたら違いがあるのかもしれません。
ですが、今日深めたいことは内容なので、ここではリフレクション・内省・反省・振り返りを全て同じものと考えて進めます。

ところで、大学受験で国語の評論を勉強しているときに、「なんで無意味に英語とか、日本語以外の表現を使うの?ヒエラルキーとかイデオロギーとかバイアスとかアイデンティティとか」と思ったことがあります。

それに対してどこかで見つけた一つの答えは、「慣れ親しんだ言葉を使ってしまうと、その言葉に対してそれぞれが持つ印象が既に存在するので、微妙に受け取り方が異なってしまうから」というものです。

かなり納得してしまった気がします。
「段階的組織構造」ではなく「ヒエラルキー」と表記し、冒頭で筆者なりの定義を述べておく。
そうすることで、論を進める中でまた「段階的組織構造」と言いたくなっても、「ヒエラルキー」を使うことで言いたいことをすぐに言うことができます。

その理論でいうと、「リフレクション」を使うのが良さそうです。
今回は全て「リフレクション」で統一してきます。

「リフレクション」とはどういう活動なのか?

自分で直感的に認識していることをベースにして、漏れがないように他のサイトを見て気づきを得つつまとめると以下のようになりました。

過去の経験を振り返り、今後どう行動するべきかを考えること

リフレクションって何で必要なの? ファシリテーターが直面する質問あるあるその2.

こちらの記事に書いてあり、非常に納得したのですが、「経験したこと」=「学んだこと」ではないということがポイントです。
なので、学んだことを見直すのがリフレクションではないと考えています。

「学んだこと」とは、既に自分の”学ぶ”という行動に対してリフレクションを行い、何を学んだかを抽象的に捉えていることですよね。

そして、今後どう行動すべきか考えることに繋げます。
特に「行動すること」が大切だと考えています。ここでは、「身体の動作を伴わない、思考すること」も行動することに入れています。

なぜ行動まで考えなければいけないのでしょうか。
強くそう思っているのには、2つ理由があります。

一つ目は、行動主義心理学の考え方から受けた影響です。
行動主義心理学では、人の信念や性格を考えず、行動を観察することによってのみ心的状態を観察していくという立場をとります。
人が何を考えているかはわからないから、行動を見ることで推測していこう、という立場は納得が行きます。

二つ目は、今もなお世界で活躍しているピョートル・フェリクス・グジバチさんのNEW ELITEという本を読んだ影響です。
コミュニケーションは、相手が行動して初めて意味がある。
そう書かれていました。確かに、伝えても相手が意図通りの行動を取ってくれなければ意味がありません。ビジネスシーンでの例だったので、「意味」とは、究極組織の一員として成果を上げさせることです。悩んでしまってパフォーマンスが落ちている人に対して、1on1ミーティングを設定して話を聞き、助言を与える。しかし、結局悩んでいる状態は解消されなければ、コミュニケーションの成果は上がっていません。

これらのことから考えて、リフレクションによって行動が変わることが大切だと思っています。

リフレクションはなぜ必要か?

目的がなければ、そりゃ必要ない

過去の経験を振り返り、今後どう行動するべきかを考えること

それがなぜ必要なのでしょうか。

それは、過去の自分より少し成長するためなのではないでしょうか。

では、なぜ成長する必要があるのでしょうか?
それは、人それぞれ無意識的なものも含めて持っている「やりたいこと」を実現するためです。
「やりたいこと」をやれること、それが人間にとっての幸せなのではないでしょうか。

僕の中での解釈はこの通りなので、そもそも幸せになりたくない、という人はこの論の前提となる目的が異なっているので、シンプルにリフレクションは不要です。

万人に必要なものってきっとそんなに無いですよね。

リフレクションが自分にどういう影響を与えてきたかをリフレクションする

今こうしてリフレクションについて深めつつ、アウトプットしていることも、自分の人生を振り返って何が今の自分を作っているのかを考える立派なリフレクションになっていると感じています。

僕は中学校に上がったとき、小学生の頃クラブチームでやっていたサッカーをやめて野球を始めました。
今でも覚えているのですが、当時小6の12歳なりに考え抜きました。

小6にもなると、強いクラブチームでしっかりやっている子と、ちょっとしたクラブでやっていて、他の遊びも色々やっていた僕では差が開いてしまいました。
周りよりちょっとできて楽しかったサッカーは、いつの間にかボールを全然キープできなかったり、シュートが明らかに弱かったりという活躍できないスポーツに変わっていってしまいました。

そんなとき、理由は忘れましたが、野球が流行り始めました。
中学でサッカー部に入った子たちも巻き込んで、野球を続ける日々。廊下で本をバットにして、セロテープを丸めたボールを打って野球遊びをして何度怒られたことでしょう。
当時の僕は指先が多少器用だったのか、ストライクゾーンにボールを投げることは容易でした。
プニプニのボールでやっていたので、握りを変えると尋常じゃなく曲がります。それでもキッチリコースに投げられたので、現実離れしたボールを投げられるゲームの世界のような感覚を得つつ楽しめていました。

野球なら、打つチャンスは必ず回ってくる。ピッチャーなら、自分が動くまでみんなが待ってくれる。
サッカーのように積極的にプレーに関わっていくのが苦手だと感じて、野球を始めました。

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生意気によく考えたものです。
しかし、中学に進学してからはどちらかと言うと惰性でした。
とりあえず地元の公立高校で偏差値の高いところへ行こう。
とりあえず大学とかよくわからないから、選択肢を減らさないよう全科目勉強しよう。それなら国立だ。
そんな感じで大学まで来てしまいました。

色々考えた小6以降の6年間、思考停止だったのかもしれません。

大学に入ってみて驚いたのが、本当に自由で、そして自己責任だということでした。
何をやるか、自分で決めなければただただ時間が過ぎる。
そう思って自分がやりたいことを考えに考え、好きだったプログラミングをアルバイトにしようと思い、社会にちょっとずつ出始めました。

それ以来、自分が何を大切にしているか、どんな過ごし方をしていたいかを考えることが多くなり、結局のところ、

  • 大学での教育工学の研究は面白いが、直接人に価値を提供できているという印象を持てない
  • スーツを来て会社回りをして、OB訪問をして、面接で話しをしてという就活で自分の個性が評価される気がしない(自分が求められる人材ではない)
  • 社会的名声も大学の名前で得られたが、意外と空っぽなものだった

という考え方に落ち着き、自分の力を高めつつ仲間を集め、今の会社を創業しました。

リフレクションによって自分の行動を変え、やりたいことを探りつつそれを目指していくこと

それが何より大切なのではないでしょうか。

できない理由を挙げるのではなく、どうしたらできるのかをみんなで考えたい

そんな経緯で、一人でも多くの若者に自己実現をして欲しいというのが最近の行動原理です。

それが目指せないのであれば、究極自分で会社をやる意味がありません。

  • リフレクションにどんな意味があるのか
  • 実際に生徒がやる意味を感じられないなら意味がない
  • ちょっとしたアンケートのように感じられる

全て、痛いほどわかります。
そう思われてしまうものしか作れない自分の能力不足にただただ恥ずかしさと情けなさを感じます。

でも、先ほどの僕自身のリフレクションにある通り、それを目指すことを大切にしているので、諦めるという選択肢はありません。

特に教育は、「それをすることでどう意味があるの?」といった問いかけが多く、先進的な取り組みができていないという困りごとが多い業界な気がしています。
お台場で6月に開かれたNew Education Expoでは、タブレットを全校生徒に導入した先生の思い切りの良さや、「絶対に役に立つ」という強い情熱と信念を目の当たりにして来ました。

「それって意味あるの?」という考え方を持つことは非常に大切です。つまり、意味がないという判断が下せているということであり、直感にしてもそれまでの人生の中でそう判断するに足る経験をしてきたということです。

だから、「それって意味あるの?」と言われたときは謙虚にそれを聞き、「これは意味ある!」になるようにモノを改善していく必要があると思います。

違いは、諦めているかどうか。
そこに尽きます。

今のチームならきっと良い教育を作れると確信しています!